タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

中東の歴史のおさらい

 今日は、戦乱が続く中東の十字軍以降の歴史のおさらいをした。

 上図は13世紀末の中東を示す。今戦闘が激しいパレスチナ地区はこの時代、イスラム教国のマムルーク朝が支配しており、巡礼の地のエルサレムもこのイスラム教国の支配下にあった。ただ、マムルーク朝は異教徒に対して寛容で、キリスト教徒のエルサレムへの巡礼を認めていた。
 パレスチナ地区の東には、モンゴル帝国から分かれた3つのハン国が居並んでいた。私は、強大な軍事力を備えた遊牧民国家と隣接していたことが、この地域に不安定をもたらし続けた大きな要因の一つであると考える。この地域は都市国家の集合体として形成されており、一旦軍事力に長けた国が現れると、膨大な支配領域を獲得するに至り、その支配力が緩めば、内紛が生じて分裂状態に戻る。時代とともに国家が興っては滅び、滅んではまた別の国家が興る。日本のように政権は変われど国家としては綿々と受け継がれている地帯とは大きく異なる。つまり中東は、不安定であり、かつ国家としての連続性が無い地帯なのである。
 また今、ウクライナへ戦争を仕掛けているロシアや、核開発の疑いで制裁を受けているイランは、この時代はハン国の支配下にあった。これらの国々は、モンゴル帝国から軍事と民衆統治の方法だけを学んだ結果、農奴解放や市民革命に出遅れてしまい、現在、欧米的な近代化と民主化に強く抵抗するに至っている。このようにして、この地域は、不安定でかつ民主化が遅れた地域になっている。

 上図は15世紀の中東地域を示す。この時代、チャガタイ・ハン国から分裂して生まれたティムール朝が隆盛し、上図に示すように広大な版図を獲得するに至った。この図には、ティムール朝の遠征経路も書いてあるが、この遊牧民国家が祖先のモンゴル帝国と同じように広範囲に戦いを仕掛けていたことが分かる。
 この時代のパレスチナは、まだマムルーク朝の支配が続いていた。ティムール朝の遠征でダマスカスが陥落したこともあったが、エルサレムには遠征の手が伸びず、マムルーク朝も生き永らえた。


 上図はオスマン帝国の拡大の様子を示す。パレスチナ地域は16世紀前半にはオスマン帝国支配下に入り、ペルシャ湾岸地域も16世紀後半にはオスマン帝国領となった。また、この帝国はヨーロッパにも触手を伸ばし、バルカン半島クリミア半島も、一時期オスマン帝国支配下にあった。こうして見ると、近年紛争が絶えない、コソボもクリミアもパレスチナも皆、当時はオスマン帝国支配下であったことが分かる。
 オスマン帝国多民族国家であり、支配階層には民族・宗教の枠を越えて様々な出自の人々が登用され、国内では多宗教・多民族が共存していた。この帝国は18世紀から19世紀にかけて次第に衰退し、第一次世界大戦での敗戦を経て「帝政の廃止」へと至る。そして、このようにして、多宗教、多民族が混じり合う地帯を統率してきたタガが外れてしまったため、この地域が紛争地域と化し現在に至っている。