タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

今日は富山県の誕生日 140歳になった

 今日は富山県が誕生した日で、1883年石川県から分離置県して140年となる。当時は自由民権運動の高まりの中、長崎県からの佐賀県分離、鹿児島県からの宮崎県分離も同時期に行われた。廃藩置県後の富山石川両県の県境は、以下の図に示すように目まぐるしく変わったようである。統合が一番進んだのが1876年実施の「第二次府県統合」であったが、統合の目的が各府県への国庫支出金の削減であったため、地域間対立や地理的要件不一致などの問題を抱えた統合県が生まれた。統合石川県もその一つであった。一番の問題は、治水を重視する富山側と道路整備を重視する石川側との対立であった。

 1883年5月9日付で、初代富山県令 国重正文が赴任した。国重正文は長州萩の生まれで長州藩の藩校である明倫館で学んだ。(私は学生時代の4年間、加賀越中能登の有志が起こした加越能育英社の明倫館(東京都文京区小石川)で寮生活を送った)。萩は川で囲まれた三角州の上に形成された城下町であって、常に洪水の危険があったことから、国重は富山県へ赴任早々、治水を重視する富山県民の思いを良く理解し具体的な施策を実施した。最初の通常県会では県予算の3割に及ぶ土木費を計上した。外国製の測量機械の買い上げを命じ、熟練技術者を京都府から呼び寄せ、治水対策を強力に推し進めた。国にも働きかけ、翌年には、庄川上流の砂防工事が内務省の直轄事業として起工した。また、県内の河川の実態把握のため、内務省からオランダ人技師ムルデルを呼び調査させた。富山県の河川(常願寺川、早月川)を見てムルデルは「これは川ではない。滝だ」と叫んだと言う。
 今日は先人の偉業に触れることができた。

P.S.
 今朝5時過ぎ、寝床でスマホを見ていたらかなりの揺れを感じた。『また能登地震か』と思った。私が学生時代を過ごした寮は富山県と石川県出身者の県人寮であり、地震震源地である珠洲市出身者や、近傍の輪島市七尾市出身者もいた。今頃どうしているだろうか?

P.S.
 本日、裏の田んぼで田植えが行われた。

 いよいよ夜には蛙の合唱が始まる。