タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

越前と越中の間の国が何故加賀、能登と名付けられたのか?

 昨日は歴史の話をした。源義経は、畿内から越前を経由して加賀の安宅の関を通り、越中の雨晴で雨宿りをして奥州へ逃げ延びた。松尾芭蕉は越後から越中に入り、越中で体調を崩しながらも有磯海の句を詠み加賀へ抜けた。ふと不思議に思ったことがある。北陸は昔、越前、越中、越後と言われていたのだが、今の石川県を構成する加賀と能登だけは「越」の字が入っていない。今日はその辺りを調べてみた。f:id:TatsuyaYokohori:20220124224435p:plain
 上図は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した日本の仏教僧「行基」が作成したとされる「行基図」を江戸時代に書き写した写本である。これを見ても北陸は、都に近い順に 越前、加賀、能登越中、越後と並んでいる。また万葉歌人で有名な大伴家持は、「令和」由来の歌で有名になった大伴旅人の長男であるが、746年から751年まで国司越中守)として越中に在任した。どうも、越前、加賀、能登越中などの国名は奈良時代には既に存在していたらしい。その辺りを更に調べたら答えが見えてきた。

 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。大化の改新(645年の乙巳の変)の頃、北陸地方は「越国(えつのくに)」と呼ばれていた。律令制が整備される中で、越国が689年-692年(持統天皇3-6年)越前国越中国越後国の三国に分立し、718年養老律令制定により能登国越前国から分離し、その後823年、さらに越前国から江沼郡と加賀郡を割いて加賀国が設置された。

 これで疑問は解消した。能登や加賀は元々は国の下の行政区分である「郡」であったのだが、越前国から分離する時、郡名を国名にしたので「越」の字が入らなかったのである。富山県飛鳥時代にできた行政区分を今日も引き継いでいることになる。ただ富山県の歴史を調べると意外なことが書いてあった。
 『明治4年(1871)、「廃藩置県(はいはんちけん)」により、越中のうち旧・富山藩領(とやまはんりょう)は富山県に、旧・加賀藩領(かがはんりょう)は金沢県の一部となりました。一時、越中の全部が石川県に入れられたこともありましたが、分県運動が起こり、明治16年5月、現在の「富山県」が生まれました。』

行政区分の粒の大きさが律令時代と同程度で良いのか疑問に思った。交通網や通信網がこれだけ発達した現代において、しかるべき行政区分のサイズにするべきである。