タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

GoToキャンペーン その7 大境洞窟住居跡と義経岩

 昨日から一泊で雨晴(あまはらし)海岸(県北西部)まで直ぐのところにある温泉に行って来た。いつものように県民割引きによるお得な旅となったが、今回は第6波が感染拡大の最中にあり、富山県でも85人の感染者が出た中でのGoToTravelとなった。富山県では明日25日から警戒レベルがステージ2に上がるが、他県と比べるとまだ感染が抑えられていることが幸いし、ギリギリ何とかトラベルできたという感じである。f:id:TatsuyaYokohori:20220124163737p:plain
 今日は海岸沿いを更に北へ進み、石川県との県境近くにある「大境洞窟住居跡」を訪れた。この住居跡は日本で最初(1918年)に調査された洞窟遺跡であり、第6層の縄文時代から第1層の中世までの地層が重層する遺跡である。発掘当時は、弥生時代より縄文時代の方が古いことを実証した貴重な遺跡となった。
(注)弥生式土器が発見されたのが1884年明治17年)であり、この洞窟発掘当時には、既に「縄文時代」と「弥生時代」の区分はできていた。ただしこの当時はまだ、縄文人が我々日本人の祖先とは認識されておらず、天孫降臨にて日本人の祖先が日本列島に辿り着く前に既にいた原始的な先住民と思われていた。
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 この遺跡には、第6層から第1層までの人々のくらし等を説明する立て看板がある。この洞窟は縄文時代前期の海面上昇で作られ、縄文時代中期の海面低下で縄文人が住み始めた。
(注)この洞窟は海抜4mの高さに位置する。縄文時代前期(6千年前)に温暖化はピークに達し、海水面は今より5m程度高かった。

 家への帰り道の途中、雨晴にある「義経岩」に寄った。
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 義経岩とは、源義経が奥州へ逃げ延びる際、この雨晴付近で俄雨が降り出したため、弁慶が岩を持ち上げ、その陰で雨宿りをしたという伝説の岩である。雨晴という地名もこの伝説から名付けられた。この地で雨宿りをしたのは1187年で、義経壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしてから2年後のことであった。義経後白河法皇から勝手に冠位をもらわなければ、頼朝の怒りを買うこともなかったであろう。

 この「義経岩」の道路を挟んで向かい側には「道の家」があり、そこには、この地に関係ある松尾芭蕉に関する説明看板も掛けられていた。それによると、芭蕉奥の細道の旅路で、1689年7月13日(現在の暦で8月27日)に親不知(おやしらず)を越えて越中国に入り、長旅の疲れと猛暑で体調を崩したらしい。それで翌日計画していた氷見の「担籠の藤波(注1)」を見に行くのを諦めたとのこと。ただ、この辺りの数多の岩礁から成る「有磯海」の海景を
  わせの香や分入右は有磯海
と詠んだ。
(注1)富山県氷見市。藤の名所。「担籠」は汐を汲む桶のこと。

今日は、縄文時代から平安時代鎌倉時代、そして江戸時代へと歴史のロマンが広がった。