タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

小竹貝塚 縄文人は広域移動

 小竹貝塚富山市呉羽町)など縄文時代の遺跡から見つかった人骨のゲノム解析の結果、小竹貝塚出土の4体は血縁関係が無く、むしろ、上黒岩岩陰遺跡(愛媛県)、古作貝塚(千葉県)、船泊遺跡(北海道)などの人骨と遺伝情報が類似していることが分かった。

 時系列に並べれば、縄文早期に上黒岩岩陰遺跡に住んでいた縄文人の子孫が、縄文前期には小竹貝塚で生活を営み、その子孫の一部が縄文後期には古作貝塚へ、別の一部が船泊遺跡へ行って暮らしていたことになる。
 小竹貝塚からは91体もの埋葬遺体が発見されており、この中の12体分のDNAデータ取得に成功している。今回その中の4体の間に血縁関係が無かったとのことだが、残る8体の解析結果が出るのが待ち遠しい。
 今回の結果だけでも、縄文人がいかに広域で活動していたことが良く分かる。実際、青森市三内丸山遺跡では約5500年前のヒスイが発見されているが、ヒスイは糸魚川でしか採れないので、この頃(縄文時代前期)既に、青森県の三内丸山と新潟県糸魚川の間に交易があったということになる。その糸魚川市には、5,500年頃から1,000年ほど営まれていた北陸最大級の集落長者ケ原遺跡がある。
 
 小竹貝塚三内丸山遺跡長者ケ原遺跡も縄文前期の遺跡であるが、この頃は温暖化で気温も高く海岸線が上図のように陸地深くまで入り込んでいた。ところが縄文中期末から気温が下がり始め、海岸線が後退し始める。縄文後期では、小竹貝塚付近では海岸線が遠くなり貝が獲れなくなったに違いない。三内丸山遺跡でも、気温低下で栗林が縮小して食料生産が低下し集落は衰退する。

 上図は昨日示した人口の推移であるが、縄文人は縄文中期末以降は、気温低下による海岸線後退や食料難で、生活する場を変えながら必死に生きていたに違いない。それでも、増えた人口を維持するだけの食料が入手できなくなっていったのだ。縄文前期では、交易による広域活動だったが、後期以降は生き延びるための居住区と生活圏の広域移動になったと考えられる。
 今回、埋葬犬の骨から採取したDNAの解析結果も発表された。その結果、縄文犬のDNAは柴犬や秋田犬とは類似性がなく、毛色はタイリクオオカミシベリアンハスキーのように濃淡のある色合いで、耳が立っていたことなどが分かった。下は今回の調査で近縁と分かったタイリクオオカミと埋葬犬一覧であるが、犬を埋葬する縄文人の優しさに触れ、埋葬された骨が6000年もの時を経て現代に語り掛けている姿に何とも言えない気持ちになった。