タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

東京オリンピック開会式

 昨晩、東京オリンピック開会式が行われた。コロナ禍の中で華々しさを抑えた演出となり、物足りなさを感じた人もいたようだが、これこそがコロナ禍をわきまえた演出だと感じた。派手で風変りな演出にしていたら、「コロナ禍の中、税金を使って何ということをしているのだ」と非難をする人がいたに違いない。最初からお金の掛からないコンパクトな五輪を目指しているのだから、開会式も簡素にするという基本方針は決まっていたことになる。その上、このコロナ禍である。こんな制限の中、コマーシャリズムに走る五輪自身に反対する人、新型コロナウイルス感染拡大を心配する人、政府のやること為すこと全てに反対する人 等々の全てに対し、納得できる演出ができるはずないわけで、そんな背景を考慮すれば、昨日の開会式は良く考えられた演出となっていたと思われる。
 私としては、ドローンを使った光輝く地球には驚かされたし、ピクトグラムのパフォーマンスは手作り感があって、欽ちゃんの仮装大賞を見ているようで微笑ましい感じがした。
 ただ、昔のような強い感動が無いのは年齢のせいだろうか。メキシコ大会男子走り高跳びで背面飛びを見た時、ミュンヘン大会の男子鉄棒で月面宙返りを見た時、そしてロスアンゼルス大会開会式でロケットマンを見た時、それぞれ大いに驚き感動した。あの頃は、まだまだ十分若かった。
 1964年の東京オリンピックの時、私はまだ小学3年生だった。陸上100mのヘイズ、水泳のショランダ、柔道のヘーシンク、重量上げの三宅、マラソンの円谷、そして東洋の魔女と未だに良く覚えている。そして、私より上の年代の人なら、ほぼ全員が私のように覚えているのではないだろうか。あの頃はまだ、多様性という言葉とは反対の、すなわち一様性の社会の中で、子供から大人まで日本全体が一丸となってオリンピックに向き合っていた。皆が同じ方向を向いて がむしゃらに突っ走ることができた。国が若かったと言える。それが、時が流れて国が成熟し、オリンピックに反対する人や興味のない人、色々な人がそれぞれの思いを発信できる、多様性に溢れる社会となった。これはきっと進歩であり望ましい方向なのであろう。