タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

関ケ原現場で合戦の検証

 昨日は関ケ原へ行き、1600年9月15日に行われた「関ケ原の合戦」の気分を味わった。まず、現場に行くことは改めて大事なことだと思った。私は最初、関ケ原東海道新幹線で走り抜けるところなので、街道としては東海道が通っていたのだと思っていたが、大きな間違いであった。関ケ原は東西に中山道が通り、北からは北国街道が、南からは伊勢街道が伸びてこの地で交わる。関ケ原は、戦国時代は、そんな交通の要衝の地だったのである。

 富山から特急で米原まで行き、そこで東海道線に乗り換えて関ケ原まで行ったわけだが、滋賀県岐阜県の県境にトンネルがあって、そこを抜け岐阜県に入ったところに「不破関」がある。関ケ原は、岐阜県不破郡関ケ原町にある。因みに、この不破関の東が「関東」、西が「関西」と昔は言われていたようである。
 関ケ原の駅で降りて、徒歩で家康が最初に布陣した桃配山に行った。中山道(国道21号)を東に20分ほど歩くと小高い丘があって、階段を20段ほど登ると、以下の写真の景色が見える陣跡に着いた。

 家康は400年ほど前、ここから戦況を眺めつつ何を考えたのであろうか? 合戦の地は2kmほど彼方にあって遠くて良く見えないし、しかもここからは、石田三成の本陣が山の陰になって見えないのである。
 次に、町の中心部まで戻り、最近できた「岐阜関ケ原古戦場記念館」の展望室から町全体を眺めた。

 上の写真は展望室から北を眺めたものだが、島左近がどのようにして鉄砲に撃たれてしまったのかを示している。写真の下端は当日合戦が行われたところで、平坦で見晴らしが良く、今は田畑の中に家々が立ち並んでいる。島左近石田三成の右腕と言われた猛将だが、合戦があったこの日は、陣から出てこの平坦地で戦っていたに違いない。狙撃の命を下したのは、知将 黒田官兵衛の息子、黒田長政である。黒田の鉄砲隊は雑木林の中を木々に隠れながら進軍し、見事、島左近に致命傷を負わせた。島左近は、稲刈りが終わった田畑で行われている合戦に気を取られ、敵の鉄砲隊がまさかこんな近くまで来ているとは思ってもいなかったのに違いない。この側面攻撃の一報は直ぐに三成陣にも入り、三成軍は側面防御にも力を割かなければならないことになる。
 次に、三成の陣跡まで行き、三成はこの地で何を考えたか想像した。

(この図では、東軍を赤西軍を青で表している)
 朝8時に井伊直正鉄砲隊の発砲で始まった合戦は、これに続いて先方を仰せつかっていた福島正則隊が宇喜多秀家隊に襲い掛かり、戦線は瞬くうちに拡大していった。2時間過ぎた頃は、東軍西軍相譲らず一進一退の状況にあったが、黒田隊からの側面攻撃により西軍には次第に動揺が広がり始めた。三成が期待していた小早川秀明隊は全く動く気配もなく、また三成の再三の要請にも関わらず、島津義弘隊も戦況を眺めているだけだった。
 そんな時、家康の本隊が進軍を始めた。3万の兵が動き出したのである。この大軍の動きは、3km離れた三成の陣からもはっきりと見て取れた。そして、この家康の動きで東軍の勝ちを確信した小早川秀明は、東軍へ寝返ることを決め、小早川隊は山を降りて怒涛のように大谷吉継隊に襲い掛かった。そして石田三成は、この高台の陣地から、西軍が雪崩を打って崩れ落ちるのを見て、敗戦を悟り逃げ落ちることになった。
 次に、島津義弘の陣跡へ行った。陣跡は今は民家が立ち並び、細い路地を何回も曲がった先の奥まったところにある。

 島津義弘は、三成からの再三の参戦要請を無視し、この地で西軍が総崩れになるのを見ていた。義弘は一旦は討ち死にを覚悟するが、甥の島津豊久に説得され撤退を決めたとこの立て看板に書いてある。ほとんどの西軍隊が西へ(後ろへ)敗走する中、何と島津隊は前方の家康本陣に向けて突進し、東軍の真ん中を突き破る形で伊勢街道へと逃げ延びた。
 さて最後に、家康が最初に布陣した桃配山陣地を思い浮かべ、家康がここで何を考えたかを再考した。この陣の後方(東方)には、西軍の本隊である毛利隊が布陣していたが、家康は調略により毛利隊が参戦しないことは確信していたし、念のため山内一豊隊を布陣させていたので後方の憂いは無かった。問題は、調略により東軍に味方するとしていた小早川秀明が本当に味方するかであった。小早川秀明が布陣した松尾山は、西軍東軍どちらへも参戦できる位置にあった。
 開戦から2時間、東軍と西軍が激しい戦いを続け一進一退の状況にあった時、家康は進軍を決意する。家康は、本隊の3万が参戦すれば、この戦いを勝利に導けると確信できたのであろう。自分が軍を進めれば、参戦を躊躇している小早川秀明も意を決することができると思ったに違いない。