タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

ロシアやウクライナの国のはじまり

 今日は、ロシア人やウクライナ人が文化的祖先の国と見なしている「キエフ公国(キエフ大公国)」について調べた。

 上図は、8世紀-9世紀前半における東スラブ人の分布範囲を示す。日本で言えば奈良時代から平安時代初期にあたるが、この頃東ヨーロッパのこの地においては、まだ統制された国というものが存在せず、図に示すような色々な部族が混在する状態であった。日本との違いで大きい点は、遊牧民の存在である。中学校の社会ではゲルマン民族大移動を習ったが、そもそもこの大移動のきっかけとなったのが、アジア系民族であるフン族のゲルマン世界への侵入である。その後フン族の帝国が衰退し、空白となったこの地にスラブ人が移動してきた。フン族遊牧民であるし、スラブ人も元々は遊牧民だったと考えられている。このようにしてこの地は、元々定住性が無かった民族による、部族内や部族間の紛争が絶えない不安定な地域であった。

 上図はキエフ公国を創建したリューリク朝の系図を示す。ノルマン人のリューリクは、この地にいた部族を束ねキエフ公国を創設し、その子イーゴリを擁してオレーグは、882年に首都をキエフへ移転しキエフ公国を建国した。

 上図は882年建国時のこの地の勢力図である。リューリクの孫に当たるスヴァトスラフは、ハザール人との征服戦争により領土を大幅に拡大した。また、その子ウラジーミルは自らの洗礼によりギリシャ正教を導入した。こうして文化的基礎となる宗教が決まった。

 上図はキエフ大公国の最大勢力範囲を示している。ロシアとウクライナベラルーシキエフ大公国の範囲内にある。スラブ人は東スラヴ人ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。プーチンは「ロシアとウクライナベラルーシは兄弟」と言っていて、これはこれで間違いではない。間違っているのは、『自分が兄で一番偉い』と思っているところである。
 キエフ大公国はその後分裂し衰退への道を歩む。とどめを刺したのはモンゴル帝国である。1237年、バトゥの率いるモンゴル軍はロシアに入りリャザン、モスクワに次いで1238年にウラディミル大公国(キエフ大公国の分裂により建国された公国)を攻撃して占領した。さらに1240年にモンゴル軍はキエフを占領、キエフ市街は炎上して、キエフ公国は滅亡した。そして東スラブ人は、その後キプチャクハン国の支配を受けることになる。
 日本人にとって、他国の人の気持ちが読めないことがよくある。ロシア人もウクライナ人も他民族に蹂躙され、支配された歴史を持つ。このような民族は「強い指導者」を求める傾向にある。プーチン大統領の支持率は80%を超えている。これはもちろん、ロシア政府が行うプロパガンダに依るところが大きいが、たとえプロパガンダが無くても、ロシア国民の一定数はプーチン大統領を支持すると思われる。『弱い人権擁護者より強い独裁者の方が良い』と思うロシア人が少なからずいるからである。

P.S.
 モンゴル帝国によるこの地域の支配は、東スラブ人に多くの影響を与えた。「ロシア人は一皮剥けばタタール(注)」という言葉がある。ロシア人はモンゴル支配を受けた結果、「アジア的」野蛮人になったというわけである。ただ、このモンゴル支配下でロシア人はモンゴル人から多くを学んだ。軍制や軍事技術、税制、駅逓制、外交技術などである。そしてこれらは全て、帝国をいかに統治するかの術であった。
(注)タタールとは元々モンゴルの一種族名だったが、モンゴル支配下のロシアを「タタールのくびき(くびきとは車の轅(ながえ)の先につけ、牛馬のくびにあてる横木)」と言うように、今では単にモンゴルを指す言葉になっている。)