タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

継体天皇は樟葉で即位した

 今日は、前回(京都東寺)前々回(関ケ原)に続き、歴史探訪の旅の最終章で「樟葉宮での継体天皇」についてである。継体天皇とは第26代天皇で、越前の三国(現福井県坂井市三国町)から迎えられた異例の天皇であり、しかも、私が昔働いていた職場に近い樟葉(大阪府枚方市)にて即位したということで、非常に興味を持っていた。
 京阪線樟葉駅で降り、山手に向かって細い路地を、時折りつま先上がりになりながら30分ほど歩いて行くと、木々がうっそうと茂る樟葉宮跡(交野天神社)に着いた。

 この神社の鳥居を抜け、参道の突き当りを左へ曲がって本殿まで進み行くと、その本殿の右に「貴船神社への参道」と書いた立て看板があり、その看板が示す社殿奥への小路を更に進むと、突き当り右手に継体天皇樟葉宮地が見えてきた。

 継体天皇の即位地は、昨日回った平安京跡に比べると圧倒的に小さく質素であった。また、そこにあった立て看板には、
「武烈(ぶれつ)天皇の死後、大連大伴金村(おおむらじおおとものかねむら)らによって越前の三国(福井県)から迎えられた男大迹(おおど)王は、507年樟葉で即位したとされます」と書いてあった。

 上図は継体天皇への系図である。25代武烈天皇が跡継ぎ無しで崩御された際、天皇家には皇統断絶の危機が訪れた。そこで皇統を応神天皇まで遡り、そこから5代目の子孫である男大迹王に白羽の矢が立ち、遠い越前国から向かい入れることになった。ここで問題になったのは、「こんな遠い越の国から、皇統の正当性も不確かな王を、大和政権の現勢力が天皇として受け入れることができるか」であった。立て看板には、樟葉宮即位以降について以下のように書いてあった。
継体天皇は、5年後に山背国筒城(やましろのくにつつき 京田辺市付近)、12年後に弟国(おとくに 長岡京市付近)に移りましたが、大和国に入ったのは20年後のことです。」
 継体天皇は20年もの時間を掛けて、大和周辺で慎重に支援者を集め、多数派工作をしながら、満を持して大和入りを果たしたことになる。徳川家康は1600年の関ケ原の戦いから1615年の大阪夏の陣まで、15年もの年月を掛けて徳川政権を盤石なものとした。継体天皇徳川家康、事をなした偉大な二人はどこか似ている。