タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

学生寮の想い出

 今日は今年初めてのパークゴルフ。案の定、成績はひどいものだったが、晴天の立山連峰を彼方に見ながらのゴルフは、やはり気持ちが良かった。帰って来たら、自宅のポストに、A4版のボール紙の包装でメール便が投函されていた。中を開くと、私が大学生だった頃住んでいた学生寮の開館111周年記念の冊子が入っていた。
 私が住んでいた学生寮は「明倫学館」と言われ、加越能育英社が運営していた。加越能育英社とは、昔加賀100万石と言われた加賀藩を構成する「加賀」、「越中」、「能登」の頭3文字を取って命名された、石川県と富山県出身の学生を支援する公益財団法人である。
 記念冊子の中には、落語家 立川志の輔 の特別寄稿文も載っていた。それを読むと、彼は私より二つ上であり、明倫学館の入館試験で不合格となったが、同じ高校出身の友人が入館できたので、金欠になるとその友人を頼って明倫学館を訪れ、夜10時の残食(20円)や先輩からのおごりのご馳走で生活を繋いでいたと書いてあった。
 今もそうだが、昔は富山県や石川県から子供を東京の大学に通わすのは大変なことだった。一般の家庭にはそんなお金がない時代だったので、結果的に大学の寮は貧乏人の息子の集まりとなった。皆「おれのウチの方がお前のウチより貧乏だ」と、まるで貧乏の方が偉いと言わんばかりに貧乏であることを自慢し合った。これは当時、マルクスレーニン主義が根強い支持を受けている中、ブルジョワジープロレタリアートの対立の構図の影響を受けて、「我こそは貧乏生活の中でも精神は貴族である」と言いたかった学生たちの姿を表している。私も自慢ではないが、加越能育英社の寮と、日本育英会および畠山財団の奨学金で学生生活を何とか全うできたと思っている。当然、寮の中でも貧乏レベルは相当高い方だった。
 回り中 貧乏人ばかりで生活しているから、誰も貧乏を苦と思っていなかった。私が入館した昭和49年は、前年に起こったオイルショックの影響を受け、狂乱物価の真っ最中であった。実家からの仕送りが上がらないのに物価がどんどん上がっていった。朝晩は寮の飯、昼は大学のコープ食堂で何とか食いつないだ。ある時、寮に泥棒が入り仕送り封筒に入っていた なけなしの1万円を盗まれた。親にも言えず、絶望のどん底に突き落とされたはずで、その一時の記憶は残っているが、その後どのように生き延びたのか思い出せない。きっと、朝晩の食事が確保できていたので、記憶に残るほどの辛い思いはしなかったのだろうと想像される。
 4年間の大学生活は私にとって基調な財産になったが、その貴重な財産の8割ぐらいが寮生活で産み出されたものである。寮の先輩から色んなことを学び後輩へ伝授した。みんなでよく居酒屋に行っては、「民主主義とは・・」とか「原子力発電所の問題点」とか「国鉄の順法闘争を支援すべきか」とか、青臭い議論を沢山した。何ともなつかしい限りである。