タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

木曽義仲と倶利伽羅峠の戦い

 今日は源平合戦の古戦場、倶利伽羅峠に行って来た。倶利伽羅峠富山県と石川県の県境にある峠で、木曾義仲率いる源氏軍が平家軍を打ち破った地である。今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」だが、先々週放映分で木曾義仲が京まで攻め上り、この倶利伽羅峠の戦いはドラマとしては描かれず、紀行説明だけで終わってしまった。誠に残念であったが、今日の倶利伽羅峠大河ドラマ効果もあり、多くの人で賑わっていた。

 上は、峠の石川県側にある不動寺倶利伽羅公園内の火牛の像である。今日は八重桜祭りをしていたこともあり、桜を見に来た人と古戦場見学に来た人とでごった返していた。
 1183年、倶利伽羅峠を越え、越中側に入って直ぐの猿ケ馬場で野営していた平家軍を、義仲率いる源氏軍が夜襲した。この夜襲の際、松明に火をつけ、峠に向かって牛を放ったという言い伝えがある。恐怖に襲われ闇雲に逃げ惑う平家軍は、谷底へ落ちて行った。この戦いで平家軍は10万の兵力の大半を失い、大将の平維盛は命からがら加賀国へ退却した。

 上は富山県側にある埴生護国八幡宮で、義仲は俱利伽羅峠へ向かう際、登り口にあるこの神社で戦勝祈願した。神社入り口には騎馬にまたがり手綱を引く勇ましい姿の木曽義仲銅像がある。

 峠の倶利伽羅公園から、麓の埴生護国八幡宮へと降りて来る道は旧北陸道であり、奥の細道の紀行では芭蕉も歩いた道である。今日初めて知ったことだが、芭蕉は義仲に大変感銘を受けていて、自分の墓を琵琶湖のほとりにある義仲の墓の隣に建てるよう遺言したそうだ。途中には以下のように芭蕉の句碑もあった。

 この道は芭蕉も歩いたし、参勤交代の折には加賀藩大名行列も通ったことになる。ひょっとしたら、義経も奥州へ逃げる際、この道を通ったかも知れない。そう思うと何だか胸が躍った。

 上は義仲が愛した巴御前と葵御前の塚である。これも峠から埴生護国八幡宮へ降りて来る道の途中にあった。
 一介の武士でしかなかった人間が、木曽の山奥から挙兵し、猛将として名をはせ、僅か3年で日本の半分を手中に収め、征夷大将軍となった。短いけれど輝く人生であったに違いない。

P.S.
・峠公園内のトイレで女性用を示すピクトグラム巴御前の武者姿であった。
・翌日放映された「鎌倉殿の13人」で、芭蕉の墓は実際、木曽義仲も眠る滋賀県大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)にあると解説された。