タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

倶利伽羅峠の戦い

 今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」だが、昨日の放映分でいよいよ頼朝が挙兵し源平合戦に突入した。
 時は1180年、平清盛の死(1181年閏2月)まであと1年、壇ノ浦の合戦(1185年3月)まであと5年である。番組は北条氏が主役となるためどうしても関東が中心となるが、私としては、木曽義仲の俱利伽羅(くりから)峠の合戦も描いて欲しいと思っている。
 倶利伽羅峠富山県と石川県の県境にある峠で、1183年6月木曽義仲はこの地で平家軍を打ち破り、その後義仲は京へ進軍することになった。倶利伽羅峠の戦いでは、牛の角にたいまつを括りつけ(火牛の計)、平家を混乱に落とし込んで勝利したとの伝説も残っている。f:id:TatsuyaYokohori:20220131103558p:plain
 世の中には不思議な偶然というのもあるようで、この「火牛の計」という戦法は、源平の合戦が行われる遥かに昔、遠くイタリアの地で行われた。紀元前217年、ローマ帝国カルタゴが戦った第2次ポエニ戦争の中で、アゲル・ファレルヌスの戦いという小規模な戦闘がイタリア南部のカンパニア地方で行われた。カルタゴの本拠地は北アフリカ(今のチュニジア)だが、カルタゴ軍はスペインから地中海沿いに進んでアルプスを越えイタリアに入った。最初は連戦連勝だったカルタゴ軍も、ローマの南東に位置するこの地(アゲル・ファレルヌス)まで進軍した時点で四方をローマ軍に取り囲まれ、持久戦に持ち込まれてしまった。
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 この時、カルタゴ軍の将軍ハンニバルは、角にたいまつを括りつけた2000頭の牡牛とそれを引き連れる2000人の非戦闘部員、およびこれを守る2000人の歩兵部隊で、ローマ軍が守備するカリキュラ山の峠を突破し逃げ延びた。火牛の計を行った戦闘地がポエニ戦争ではカリキュラ山の峠、源平合戦ではくりから峠、こんな偶然ってあるのだろうか?

 「峠」は日本で作られた漢字である。峠が地名になるのは日本だけであろうか? 私には想い出に残る峠が2つある。ひとつ目が碓氷峠。昔私がまだ学生だった頃、上京する際、富山から特急で上野まで6時間掛かった。列車はこの碓氷峠通過に際し補助機関車の連結が必要だったため、近くの横川の駅で長時間停車した。その駅で売られていたのが「峠の釜めし」である。よくこの名物弁当を買って食べ、残った釜をお土産として持ち帰ったものである。
 二つ目は洞が峠。私が30代の頃、自宅の京都府八幡市から勤め先の大阪府枚方市まで自転車で通勤していた。この通勤経路途中の府境にあるのが洞が峠である。1582年本能寺の変の後、明智光秀は天王山の麓の山崎で羽柴秀吉軍と戦った。正に天下分け目の天王山の戦いであった。この時、羽柴秀吉明智光秀 双方から加勢を依頼された筒井順啓は、この洞が峠まで軍を進めたが、どちらにも付かず日和見を決め込んだと言われている。そんな伝承が残る峠を私は毎日走り抜けていた。朝の通勤で京都側からこの峠への坂道は、自転車を漕ぐには多少きつめであるが、峠を過ぎれば緩やかな長い下り坂となり、右手遥か向こうの淀川沿いには新幹線が走り、その向こうには天王山が見えた。
 さて、話を今日の本題に戻す。倶利伽羅峠の合戦は今年の大河ドラマの本流からは外れてしまうが、多少なりとも扱ってもらえることを期待する。