タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

光秀は本能寺には行かなかった?

 昨年のNHK大河ドラマがこのコロナ禍で年末に終了せず年越しとなって続いている。今回は明智光秀が主人公だが、昨日「光秀は本能寺に行っていない」というニュースが流れた。この新説の出どころは、加賀藩の家臣 関谷政春が書いた古文書「乙夜之書物」であり、本能寺の変は、光秀軍を率いたとされる重臣斎藤利三(としみつ)の三男で自らも数え16歳で事件に関わった利宗(としむね)が、甥の加賀藩井上清左衛門に語った内容として収録されている。その古文書の中では、利三と、光秀重臣明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと書かれているとのこと。確かに本能寺の変では、大将の光秀自ら最前線に立つ必要は無かったわけで、この説は理にかなっている。一方で大河ドラマはこれから佳境に入るが、あくまでもフィクションとして、光秀が陣頭指揮して本能寺を急襲するように描くのだろうと想像する。
 話は少々変わる。明智光秀斎藤利三美濃の出であるが、私は大阪で会社務めをしていた頃、京都府八幡市美濃山という所に住んでいた。その美濃山から大阪府枚方市の職場まで自転車通勤していたわけだが、途中の府境にあるのが洞が峠である。この洞が峠は筒井順慶が「洞ヶ峠を決め込む」として天王山決戦を日和見主義的に見物した場所として有名である。確かにこの辺りから淀川の向こうに位置する天王山が良くみえるし、そのふもとで行われた明智光秀羽柴秀吉の山崎の合戦が偲ばれる。また、斎藤利三の娘には徳川家光の乳母で大奥を作った春日局(かすがのつぼね)がいるが、私が東京で学生をやっていた頃、この春日局に因んで名付けられた春日通り界隈に住んでいて、通りに面する飲み屋に週に2,3回通い、実りある学生生活を送らせてもらった。このように考えると、私は明智光秀とどこかで繋がっているのかもしれない。