タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

セミの初鳴き?

 今日、雨の止み間のウォーキングで、セミの初鳴きが聞こえたような気がした。気がしたと書いたのは、まだ梅雨明け前でちょっと早い気がしたのと、かすかに聞こえて直ぐに止んでしまったからである。
 芭蕉が山形の山寺(立石寺)で
  閑かさや岩にしみ入る蝉の声
と詠んだのが元禄2年5月27日(現在の暦で1689年7月13日)。鳴いていたセミニイニイゼミが定説となっているが、理由が、この7月中旬にはニイニイゼミが鳴き始めるがアブラゼミはまだ鳴いてないとされたからである。今年の夏は梅雨明け前から猛暑日が出現する暑い夏となっているが、芭蕉奥の細道を歩いた1689年の夏はどんな夏であったのだろうか? 江戸時代は昭和の時代と同じように、夏と言っても30℃を超える暑い日は年に数日しか無かったに違いない。芭蕉立石寺を出て越後を抜け越中に入ったのが現在の暦で8月27日。この越中の地で芭蕉は、長旅の疲れと猛暑で体調を崩したらしく、楽しみにしていた氷見の「担籠の藤波」行きを諦めたとされている。この時芭蕉は46歳であったが、当時の平均寿命を50歳と考えれば、今で言う75歳(後期高齢者の入り口)ぐらいに当たるのであろう。この歳にしての長旅は一大決心だったに違いないし、途中で体調を崩すことがあったとしても別に不思議ではない。
 この芭蕉の旅とは、今で言えば、TV出演で最近有名になった俳句の夏井先生が、10年後、後期高齢者へ仲間入りしたことを期に一大決心してお遍路さん巡礼の旅に出たようなものであろう。既に円熟の境地に達していながら、更なる高みへの向上心と未知なる世界を求める好奇心が、身体の衰えをものともせず逆にそれが危機意識となり、長旅への衝動を駆り立てたに違いない。
 さて、奥の細道に対して外国人がびっくりすることがある。この156日間の長旅の間に、山賊や盗人の被害に一度も会わなかったことである。日本の治安の良さは江戸時代から既に世界の頂点にあった。

 下は、倶利伽羅峠(旧北陸街道で越中富山県)と加賀(石川県)との国境にあった峠)へ向かう道にあった芭蕉塚と芭蕉の句碑

P.S.
 今日7月13日、近所でニイニイゼミが鳴くのを確認できた。奇しくも、芭蕉が山寺で句を詠んだ日と同じ日であった。まだ梅雨は明けてない。芭蕉が旅した1689年は梅雨明けが早く相当暑い夏であった可能性がある。