日本人が外国人と異なる特徴の一つに「日本人は無宗教」がある。日本人は大半が仏教徒であるという見方もあるが、毎日何回も礼拝するイスラム教徒や、毎週日曜日に教会に行くキリスト教徒に比べて、日本人の宗教心は確かに低い。ただ そんな、宗教とは一定の距離を置く日本人の倫理観は非常に高い。私には、多神教の日本人と一神教の外国人との違いのように思える。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のため日本を訪れたのが1549年。時は戦国時代の真っ只中であった。このザビエルがイエズス会に宛てた手紙の中に、当時の日本人の宗教心が見えてくる記述がある。以下、脚色して、布教活動の中でのザビエル(青色)と村人(赤色)との問答を示す。
・洗礼のシステムが祖先に適用されないことに対する疑問
「洗礼を受けると誰でも天国へ行けます」
「我々の祖先は誰も洗礼を受けてない。となると全員地獄へ落ちたのですか?」
日本人の祖先を敬う信仰を知らなかったザビエルは戸惑いながら
「・・うーーむ、そういうことになりますね」
「そんな神様はひどくないですか! そんな神、いてたまるものですか!」
・万能な神に対する疑念
「万能なる神はこの世のすべてのものをお作りになった」
「それは嘘ですね。神が万能ならこの世に悪い物や人なんていないはず。
でも、不完全なものはこの世にたくさんある」
「もちろん、神が万物をお作りになった時、それは完全なものでした。
しかしそれは時と共に悪い物に変わっていくのです。
神はそんな彼らに罰を与えました。罰は永遠に続きます」
「罰? そんな・・ びどい!
神がそれほどまでに残酷に罰する者なら 憐れみのない者だ!」
ザビエルが説くキリスト教の教義が、一介の村人たちにより論破される結果となった。彼らは、神より阿弥陀仏の方が余程良いと主張したのである。
ザビエルは日本人について以下のように記している。
・『この国の人々は、これまで私たちが発見した国民の中で最高の人々であり、
日本人より優れている人々は、異教徒の中では見つけられないでしょう。
彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません』
・『驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。
彼らは恥辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしません』
・『窃盗はきわめて稀です。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいます』
ザビエルは、日本へ向かう布教者の必要要件も書いている。
・『彼らの質問に答えるには学問が必要だ。特に哲学に通じていなければならない』
・『困難に立ち向かうため、無数の徳を備えていなければならない』
さて、ザビエルの手紙から、日本人がなぜ一神教を受け入れなかったかのヒントが見えて来る。
・古代より日本人は、万物に神が宿ると信じる多神教の民であった。
・日本に仏教が伝来した時、日本人はそれを「賢者の考え(=有難い教え)」として捉え、仏は神と共存できる存在として受け入れられた。
・キリスト教が伝来した時、その教義に日本人は納得がいかず、多神教+神道+仏教の複合的な宗教観を超える存在には成り得なかった。
このように考えれば、日本人は無宗教でもなければ無神論者でもない。ほとんどの日本人は、多神教+神道+仏教 と言う複合的な宗教観の中で生活していると言える。そして宗教とは、「神々が宿る自然と向き合いながら人としてどう生きれば良いかを探し求めるための先人の教え」となるであろう。