前回のNHK大河ドラマで、紫式部が越前へ赴きそこで宋人と遭遇する場面があった。高校の世界史で中国の歴史は一応勉強したはずだが、隋、唐、宋、元 と移り変わる中国の歴史の中で、宋に関する記憶が皆無である(強いて言えば、中学歴史で習った平清盛の日宋貿易ぐらい)。今日は、紫式部が生きていた頃の東アジアの様子を調べた。
上図は、古代から鎌倉武家政権が始まるまでの東アジアの国々の移り変わりを示す。遣唐使廃止後も、藤原氏と呉越とのあいだでは外交が続いていた。中国大陸が統一されていく中で呉越が北宋に吸収され、北宋との間では私貿易が継続した(下図左は五代十国時代の呉越を示す)。
上図右は、10~11世紀の東アジアと日宋の交通路を示す。これを見る限り、越前の敦賀に宋人の貿易船が来て紫式部等と会ったとは考えにくい。ただ、ドラマ設定では「難破して流れ着いた」となっていたので、有り得ない話ではない。
上図は渤海使の航路を示す。唐代から五代十国時代にかけて、中国東北部には渤海という国があった。そして、この渤海使節団の立ち寄り先が越前の敦賀であった。航路は最初リマン海流に乗って南下し、その後 冬の北西の季節風を利用して日本列島まで辿り着き、その後は対馬海流に乗って日本海沿岸を北上するルートとなっていた。紫式部が生まれる前から、越前敦賀は他国に対しての表玄関だったのである。ドラマでは、敦賀の松原客館に宋人が仮住まいする設定となっていたが、この松原客館は、渤海使節団をもてなす迎賓館だったのである。
さて、日宋交通路の図に「刀伊(とい)の入寇」の航路が書いてある。1019年5月、刀伊(女真族)は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火、略奪を繰り返した。その後、壱岐を襲撃し島民148名を虐殺し、女性239人を拉致した。その後、刀伊勢は北九州に上陸し、筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、5月16日には博多を襲った。刀伊勢は、博多の警固所(防御施設)を焼き払おうとしたが、ここを警護する藤原隆家によって撃退された。藤原隆家とは、花山院に矢を射かけた罪で出雲権守に左遷されたあの隆家である。若い時のやんちゃな振る舞いで一旦は失脚したが、その後見事に復活し、日本の危機を救ったのである。