今世間では「フジテレビ問題」で持ち切りになっている。通常国会が始まったばかりのこの時期に、こんな一企業の問題が、国民の最大の関心事になってしまう日本という国が心配になる。私は、企業の危機管理よりも国の危機管理の方がもっと大事だろうと言いたい。ただ、国の危機管理の責任者である石破首相が、フジテレビ問題に対し「企業のガバナンスが効いているかが問われている」と発言した。首相が言っていることはもっともだが、私は『お前にそんなことを言える資格があるのか?』と思ってしまう。
上図は、経済評論家の三橋貴明氏が示す「日本を凋落させた三つの主義」である。一昨日のブログでは、「グローバリズム」と「リベラリズム」が、トランプ政権の政策と真逆の方向であることを説明した。今日は「財政均衡主義」の問題点を考えた。ただ、この問題を考えている中で、「貨幣とは何か?」が理解されてないと問題の本質が理解できないと分かったので、今日は貨幣の本質について考察する。
1.二つの貨幣観
① 間違った貨幣観
-1.貨幣とは価値がある「モノ」である(金貨、銀貨)
-2.紙幣などの貨幣は、貴金属を担保に発行されなければならない
② 正しい貨幣観
-1.貨幣とはモノではなく、債務と債権の記録(データ、情報)である
-2.貨幣は「貸し借りの関係」が成立した時点で創造される
2.間違った貨幣観
我々は、ここまで生きて来た経験から、貨幣とは1の①で示す「モノ」だと思っている。ただ、これは間違いである。①-1に関して言えば、我々は別に生活上金貨や銀貨を使ってはいない。また、今使っている硬貨はアルミや銅製であり、溶かして地金にしたら表示価値の何分の1にも減額となる。①-2に関して言えば、1971年には米ドル紙幣と金との兌換が停止されている。日本においては1931年に兌換停止となっている。現在、貴金属を担保に紙幣発行している国はどこにもない。
3.正しい貨幣観
日本のお札である「日本銀行券」は、正しい貨幣観から見れば、日本政府の子会社である日銀が発行する債券であり、日銀の帳簿には債務として記録される。また、個人が銀行からお金を借りる場合は、貨幣が創造され、個人の貯金通帳には創造された貨幣が債務として記録され、銀行の帳簿には債権として記録される。貨幣とは「モノ」ではなく「債務と債権が記録された情報」なのであり、「モノ」の特性の一つである物量(例えば金保有量)には制限されず発行(貨幣創造)できる。貨幣創造は、貸し手と借り手の関係が成立すれば可能となる。この貸し借りの関係性は、個人が銀行からお金を借りる場合においては容易に理解できる。しかしながら、日銀がお札を発行する場合、国民と日銀の間に「貸し借りの関係」が成立しているとは誰も思わない。この場合は特別であり、日本銀行券は返済不要な特別の債券として発行されるので、日銀の帳簿には債務として記録されるが、日銀の運営がこの債務の多さで苦境に陥ることはない。国民は、この日本銀行券を市中に流通する債券として使用していることになる。なお、政府が発行する国債も債券であるが、広い意味では貨幣でもあり、国債発行により貨幣創造が行われ、創造された貨幣が国債を購入した日銀や市中銀行の帳簿に債権(当座預金)として記録される。
4.正しい貨幣観から見えて来るもの
正しい貨幣観に立脚すると、「財政均衡主義」は間違った考えであることが見えてくる。貨幣は政府自ら創造できる(国債発行すれば貨幣創造できる)ものであり、「税収の枠内」という制限をかける必要は本来ないのである。間違いの根本にあるのは、貨幣の総量をぼんやりとモノの総量と考え、この総量は変えられないとする思い込みである。国債発行が貨幣創造になるとは誰も考えていないのである。
貨幣は創造できる。創造すれば量も増やせることになる。あとは「増やして良い量はどの程度か?」という問題になる。日本国内で産み出す価値の総量をGDPと呼ぶ。GDPは、国内で生産されたモノやサービスの付加価値の合計額と定義される。ここで、価値には、サービスという名で括られるモノ以外が存在するところがポイントとなる。価値をモノと捉えると『人口が減っている中で(モノへの需要は増えないから)価値の総量はそんなに増えないで、むしろ減少する』と考えてしまうのだが、モノ以外もあると捉えれば、価値は人の頭脳労働(想像)の産物として制限無く創造することができるとの思いに至る。人を幸せにするエンターテインメント的な価値を逞しい想像力にて大量に創造できれば、その価値の増加分がGDPの増分となり、経済を成長させることになる。そして、拡大した経済には貨幣量を増やして経済が回るようにしなければならないので、その分の貨幣創造が必要となる。と ここまでは、価値量の拡大が先でその後に貨幣量の拡大が必要になると説明したが、順番は逆でも良い。すなわち、政府が貨幣創造して(国債発行して)貨幣量を増やし、有効需要を増やして価値創造を刺激すれば、新たな価値が創造され経済の活性化を図ることができることになる。つまり、「貨幣をどの程度増やしても良いか?」に対する答えは、「貨幣は経済が成長した分増やして良いし、経済成長を狙って(予想される経済成長分)増やしても良い」となる。
さて、景気が良い時は、需要が供給を上回り、市中銀行から民間への貨幣創造が盛んに行われ、供給力を増やすための設備投資が活発となる。こんな時は、日銀は金利を高めに設定し、政府は財政支出(国債発行)を引き締め気味にすれば良い。一方で、デフレの時や昨今のように景気回復が芳しくない時は、政府は財政支出を増やし景気刺激型の予算にしなければならない。価値創造を刺激する誘い水が必要なのである。
貨幣は創造される。それにより価値も創造される。創造するのは人間の想像力である。想像力に限界はない。どう刺激するかが問題である。
P.S.
そうは言っても国民は、「日本の国債残高が1100兆円を超え、国の借金の総額が1400兆円を超えてGDPの2倍以上になった」と言われると心配になる。これは至極もっともなことだが、こんな財務省の騙しの文言に引っかかって不安がる必要はない。
<騙しその1>
国債を借金のように言うが、国債は本質的には日本銀行券と同じ貨幣であり、借金と見なせるのは利子(国債利回り)の部分に限定される。ここで国債利回りを仮に5%とすると、1100兆円の国債発行残高の中で借金部分は55兆円となり、残りの1045兆円は、貨幣として日本の経済を回すために働いているお金となる。そもそも国債発行は政府が行う「貨幣発行」の手段であり、GDPの成長に合わせてそれに見合う分の貨幣量を増やす必要があるのだから、発行残高が年々増えることは当然であり何等問題ない。国債が本質的には貨幣であることは、国債償還のやり方を見ると納得できる。政府は国債償還時に「借換債」と言う新しい国債を発行して対処している。これは、緊縮財政派の目には「借金を返すために新しい借用書を書いているようなもの」と写るが、そうではない。借換債発行とは、市中の国債残高(=貨幣発行残高)が減らないよう、古い債券を廃棄しそれと同額の新しい債券を発行する行為と見なせる。
<騙しその2>
国家財政の健全性を判断する場合、債務の大きさだけで判断するのは間違いである。企業経営の健全性を判断する場合と同じように、債務(負債)と債権(資産)の大きさを比較し、その差額で判断しなければならない。また、政府と中央銀行(日銀)を統合政府と見なし、この統合政府の連結決算の形で判断しなければならない。これは、国債は政府にとっては負債だが、それを買い取った日銀にとっては資産となるので、この分の相殺を行うことを意味する。下図は、統合政府のバランスシート(貸借対照表)の国際比較である。日本は先進7ヶ国中 上から2番目で国家財政は健全な方に位置し、財務省が騒ぎ立てるような問題が無いことを示している。
(注)上図グラフには、統合政府の{(資産-負債)/GDP} の値の推移がプロットされている。日本統合政府の折れ線は僅かにプラス側にあり、借金は多いがそれ以上の資産を保有しているので、国家の財政運営上問題が無いことが分かる。これはIMFの資料で、同一基準での各国比較である。我々は、財務省の言っていることに惑わされず、国際機関が公表する信用できるデータで適切に判断しなければならない。