タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

西欧東欧日本の建国時歴史比較

 私はかねがね「なぜ日本だけが欧米と価値観を共有する国になったのか?」と不思議に思っている。ここで言う価値観とは、「民主主義」、「法の支配」、「人権の尊重」の3つである。G7の国々とは、この価値観の共有ができるのだが、日本の周辺に位置するロシアや中国、北朝鮮との間では共有できない。韓国との間でも一部共有できないところがある。今日は、西欧東欧日本の歴史を比較し、日本がロシアより西欧に近い理由を探ってみた。

 上表は、西欧東欧日本の建国時の歴史を比較したものである。文化的基礎となる宗教については赤字で記した。まず、領土的観点から、国のおおよその形が決まったのは、日本が一番早く、西欧(仏、独、伊)においては9世紀後半、ロシアに至っては、9世紀後半に一旦建国したが、その後モンゴル帝国に滅ぼされ、再度建国後は19世紀まで領土拡張を繰り返したことになる。
 また、宗教的には、ローマ帝国の北側にいたゲルマン民族カトリックに改宗したのが5世紀、日本が仏教を受容したのが6世紀である一方で、キエフ公国のウラジーミル1世が、自ら洗礼を受け、ギリシャ正教に改宗したのが988年であり、西欧や日本より遥かに遅い。
 今日感じた西欧と日本の共通点は「古代西欧も古代日本も古代文明に接っしていた」という点である。西欧の原型となったフランク王国ローマ帝国の滅亡に伴い誕生したし、日本も古代中国経由で仏教が伝来し、漢字を導入して律令制度も学んだ。西欧も日本も古代文明に接する位置にいたため、早くに政治的・文化的基礎が固まったことになる。
 今後は中世の歴史比較もしてみたい。4/4のブログでは、日本と西欧の類似点として「封建制度」がキーになるのではと書いたが、中世における統治の仕方を比較すれば、西欧と日本の共通点が見つかるかもしれないし、ロシアとの違いも浮かび上がるかもしれない。



ロシアやウクライナの国のはじまり

 今日は、ロシア人やウクライナ人が文化的祖先の国と見なしている「キエフ公国(キエフ大公国)」について調べた。

 上図は、8世紀-9世紀前半における東スラブ人の分布範囲を示す。日本で言えば奈良時代から平安時代初期にあたるが、この頃東ヨーロッパのこの地においては、まだ統制された国というものが存在せず、図に示すような色々な部族が混在する状態であった。日本との違いで大きい点は、遊牧民の存在である。中学校の社会ではゲルマン民族大移動を習ったが、そもそもこの大移動のきっかけとなったのが、アジア系民族であるフン族のゲルマン世界への侵入である。その後フン族の帝国が衰退し、空白となったこの地にスラブ人が移動してきた。フン族遊牧民であるし、スラブ人も元々は遊牧民だったと考えられている。このようにしてこの地は、元々定住性が無かった民族による、部族内や部族間の紛争が絶えない不安定な地域であった。

 上図はキエフ公国を創建したリューリク朝の系図を示す。ノルマン人のリューリクは、この地にいた部族を束ねキエフ公国を創設し、その子イーゴリを擁してオレーグは、882年に首都をキエフへ移転しキエフ公国を建国した。

 上図は882年建国時のこの地の勢力図である。リューリクの孫に当たるスヴァトスラフは、ハザール人との征服戦争により領土を大幅に拡大した。また、その子ウラジーミルは自らの洗礼によりギリシャ正教を導入した。こうして文化的基礎となる宗教が決まった。

 上図はキエフ大公国の最大勢力範囲を示している。ロシアとウクライナベラルーシキエフ大公国の範囲内にある。スラブ人は東スラヴ人ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。プーチンは「ロシアとウクライナベラルーシは兄弟」と言っていて、これはこれで間違いではない。間違っているのは、『自分が兄で一番偉い』と思っているところである。
 キエフ大公国はその後分裂し衰退への道を歩む。とどめを刺したのはモンゴル帝国である。1237年、バトゥの率いるモンゴル軍はロシアに入りリャザン、モスクワに次いで1238年にウラディミル大公国(キエフ大公国の分裂により建国された公国)を攻撃して占領した。さらに1240年にモンゴル軍はキエフを占領、キエフ市街は炎上して、キエフ公国は滅亡した。そして東スラブ人は、その後キプチャクハン国の支配を受けることになる。
 日本人にとって、他国の人の気持ちが読めないことがよくある。ロシア人もウクライナ人も他民族に蹂躙され、支配された歴史を持つ。このような民族は「強い指導者」を求める傾向にある。プーチン大統領の支持率は80%を超えている。これはもちろん、ロシア政府が行うプロパガンダに依るところが大きいが、たとえプロパガンダが無くても、ロシア国民の一定数はプーチン大統領を支持すると思われる。『弱い人権擁護者より強い独裁者の方が良い』と思うロシア人が少なからずいるからである。

P.S.
 モンゴル帝国によるこの地域の支配は、東スラブ人に多くの影響を与えた。「ロシア人は一皮剥けばタタール(注)」という言葉がある。ロシア人はモンゴル支配を受けた結果、「アジア的」野蛮人になったというわけである。ただ、このモンゴル支配下でロシア人はモンゴル人から多くを学んだ。軍制や軍事技術、税制、駅逓制、外交技術などである。そしてこれらは全て、帝国をいかに統治するかの術であった。
(注)タタールとは元々モンゴルの一種族名だったが、モンゴル支配下のロシアを「タタールのくびき(くびきとは車の轅(ながえ)の先につけ、牛馬のくびにあてる横木)」と言うように、今では単にモンゴルを指す言葉になっている。)






木曽義仲と倶利伽羅峠の戦い

 今日は源平合戦の古戦場、倶利伽羅峠に行って来た。倶利伽羅峠富山県と石川県の県境にある峠で、木曾義仲率いる源氏軍が平家軍を打ち破った地である。今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」だが、先々週放映分で木曾義仲が京まで攻め上り、この倶利伽羅峠の戦いはドラマとしては描かれず、紀行説明だけで終わってしまった。誠に残念であったが、今日の倶利伽羅峠大河ドラマ効果もあり、多くの人で賑わっていた。

 上は、峠の石川県側にある不動寺倶利伽羅公園内の火牛の像である。今日は八重桜祭りをしていたこともあり、桜を見に来た人と古戦場見学に来た人とでごった返していた。
 1183年、倶利伽羅峠を越え、越中側に入って直ぐの猿ケ馬場で野営していた平家軍を、義仲率いる源氏軍が夜襲した。この夜襲の際、松明に火をつけ、峠に向かって牛を放ったという言い伝えがある。恐怖に襲われ闇雲に逃げ惑う平家軍は、谷底へ落ちて行った。この戦いで平家軍は10万の兵力の大半を失い、大将の平維盛は命からがら加賀国へ退却した。

 上は富山県側にある埴生護国八幡宮で、義仲は俱利伽羅峠へ向かう際、登り口にあるこの神社で戦勝祈願した。神社入り口には騎馬にまたがり手綱を引く勇ましい姿の木曽義仲銅像がある。

 峠の倶利伽羅公園から、麓の埴生護国八幡宮へと降りて来る道は旧北陸道であり、奥の細道の紀行では芭蕉も歩いた道である。今日初めて知ったことだが、芭蕉は義仲に大変感銘を受けていて、自分の墓を琵琶湖のほとりにある義仲の墓の隣に建てるよう遺言したそうだ。途中には以下のように芭蕉の句碑もあった。

 この道は芭蕉も歩いたし、参勤交代の折には加賀藩大名行列も通ったことになる。ひょっとしたら、義経も奥州へ逃げる際、この道を通ったかも知れない。そう思うと何だか胸が躍った。

 上は義仲が愛した巴御前と葵御前の塚である。これも峠から埴生護国八幡宮へ降りて来る道の途中にあった。
 一介の武士でしかなかった人間が、木曽の山奥から挙兵し、猛将として名をはせ、僅か3年で日本の半分を手中に収め、征夷大将軍となった。短いけれど輝く人生であったに違いない。

P.S.
・峠公園内のトイレで女性用を示すピクトグラム巴御前の武者姿であった。
・翌日放映された「鎌倉殿の13人」で、芭蕉の墓は実際、木曽義仲も眠る滋賀県大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)にあると解説された。









筍を掘って考えたこと

 今日は私の実家の裏山で筍掘りをした。少々小ぶりではあるが、まずまずの収穫だった。

 筍は竹の子供ではない。裏山に群生している竹の遺伝子とその山の麓で掘った筍の遺伝子は同一であり、すなわち筍は竹という生命体の一部ということになる。
 筍が成長すれば竹になるが、竹(モウソウチク)は強くてしなやかであり、この辺りに降る雪にも耐えて折れたりしない。しかも中が中空であり、軽くて強い。ふと、竹の維管束はどこにあるのか? と思った。維管束とは中学校の理科で習ったが、根から吸い上げた水や養分が通る道管と葉での光合成で作られた養分が通る師管を束ねたものである。
 
 上図は竹の維管束鞘を拡大したものだが、竹にはこの維管束鞘が無数に存在する。

 上は、竹(モウソウチク)の断面写真[左]と、その一部を拡大した電子顕微鏡写真[右]である。ハート型の黒い孔を取り囲む肉厚の膜が維管束鞘であり、断面の外側部分で密に詰まっている様子がわかる。
 竹が強いのは、この維管束鞘を含む繊維質の組織が密に配置されているからである。竹が軽いのは中が中空だからである。竹が強くて軽いのは、断面剛性が稼げる外周部分に強度部材である繊維質を密に配置しながら、断面剛性が稼げない中心部を中空にしたからである。
 竹には形成層が無いから、年輪を重ねて成長することはない。筍は1,2ヶ月で竹へと成長するが、竹となり成長が止まった時点で、その後は縦にも伸びないし、横に太ることもない。
 このように考えると、竹とは実に不思議な植物だと思う。毎年毎年筍は生えてきて成長する。ただこれは、子孫が増えているわけではなく、竹という生命体が生活範囲を広めているだけである。竹林の中では枯れた竹を目にすることもあるが、これは死を意味せず、竹という生命体の一部が壊死しただけである。そして、この永遠の寿命を持つように思われる竹も、花を咲かせることがある。花を咲かせた後、竹林全体が枯れて寿命を全うするのである。








平和な日々の有難さ

 今朝、娘と孫が東京へ帰っていった。さすがに新幹線は速い。昼前にはもう「着いた」とLINEで連絡が入った。一週間はあっと言う間に過ぎた。季節は進み桜は葉桜となり、筍掘りや山菜取りのシーズンになってきた。
 娘と孫を駅で見送った後、市役所に行って国民健康保険加入の手続きをしてきた。退社後2年が過ぎ、会社の任意継続健康保険の有効期限が残り10日となったためだ。元働いていた会社との縁もだんだん切れて行く。今残っているのは、持株会で貯めた株ぐらいだろうか?
 この2年間はコロナで始まりコロナで終わろうとしていたが、最終盤で戦争が始まり、ウイルスとの戦いから専制国家との戦いへと様相が一変した。戦争は現段階でも治まる気配がない。毎日悲惨なニュースを見ていると、ここ日本での平和な日常の有難さをつくづくと感じる。
 

孫中心に回る生活

 昨日は、里帰りしている娘と孫、それに妻とで富山市の動物園に行って来た。久々のキリンやトラ、サルにクジャク、シカにツキノワグマ、大人まで興奮できる素晴らしい行楽のスポットであった。
 今日は魚津市の水族館に行って来た。ここもまた、久々のペンギンにアザラシ、ウミウシにウニ、ヒトデ、ホタルイカ、大人になってから知った高級魚のクエと大人の方が興奮しっぱなしであった。
 娘が里帰りして6日目となり、ここまで植物園、動物園、水族館、遊園地・運動公園と行き、もう行く場所が無くなってきた。今回は孫がまだ小さい(生後7ヶ月半)ので、孫以上にジジババの方が楽しんでいるが、ここのところの生活は確実に孫中心に回っている。残るはあと1日。明後日朝 二人が東京へ戻れば、また夫婦二人、灯が消えたような静かで緩やかな生活に戻る。

バナナの話

 今日は里帰りしている娘と孫、それに妻との4人で富山中央植物園に行って来た。桜(ソメイヨシノ)はもう散った後だったが、八重桜や桃などが今を盛りに咲いていて十分楽しめた。
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 こういう場所は何と言っても、広い割に人が少ないところが良い。田舎の植物園ならではの利点であり、樹木の中にのびる静かな小道をマイナスイオンを浴びながら歩いていると、『こういうところで働いていれば、肉体的にも精神的にも健やかに過ごせるだろう』と思った次第である。
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 写真は温室にあったバナナであるが、今日は改めてバナナというものを勉強した。いつも食べているバナナに種がないのは、我々が一般に食べているバナナが、突然変異で出来た「種がない品種」であるだけで、野生のバナナにはもちろん種がある。そしてその種なしバナナを増やすには、茎の根っこの脇から出てくる新芽を使って、次の代のバナナに育てる。
 また、バナナは実がなると枯れてしまう。バナナは木ではなく草であり、花を咲かせ実がなり一生を終える多年草の植物である。