タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

海外出張トラブル(最終章)

 今日のブログは一昨日 および 昨日の続きで、このシリーズの第3話 最終章となる。米国現地法人での会議は月曜と火曜の2日間、朝8時から夕方5時までの日程でびっしりとアジェンダが決まっていた。最初に各自の自己紹介が行われたが、現地法人から発注を受けたコンサルタント3人が今回の主要な対戦相手と分かった。「対戦」と捉えたのには訳がある。米国では、システム導入等の大規模プロジェクトを行う場合は、それを専門家に任せて調査・企画・計画を行い、専門家がまとめた実行計画に沿って行動することが基本的なやり方とされていた。従って、この3人のコンサルタントが納得するような説明ができれば、このプロジェクトの方向性を正しく定めることができるわけで、すなわち3人のコンサルタントが対戦相手となったわけである。会議の参加メンバ十数名の中で、私以外で日本人は、その工場の日本人駐在員1名と米国現地法人本社技術統括の駐在員1名の2人で、二人ともシステムに関しては素人だった。一方で現地法人側は、プロジェクトリーダーであるR&Dの技術管理部門長をはじめとして、実際システムの利用者となる設計部門、技術管理部門、生産管理部門のスタッフが並んでいた。私は、誰一人頼りとできない敵陣の中に一人で乗り込んで行く戦士のような感じがしていた。実際、会議参加者の中には、今使用中のCADシステム(UG)を導入した担当者もいた。その人にとって見れば、自分が苦労して導入したシステムが、日本の親会社の決めた方針で別のCADシステム(Pro/E)に変更になるわけであるから、快く思っているはずがないわけで、そういう意味では会場の雰囲気は完全にアウェイだった。
 一番目の議題は、CADデータ管理システムについてであった。日本側が使っているPro/EというCADシステムを現地法人も採用するため、現地法人が米国CADベンダに相談したところ、日本側が使っているデータ管理システムは古いからダメだと言われたそうである。この話は事前にTV会議で会話しており、日本側も新しいデータ管理システム(PDMLink)の導入にゴーサインを出していた。ただ、困ったことにこの会議では、日本側も近い将来PDMLinkへ移行するんでしょうね と念を押されてしまった。私は即座に assure したが、実を言うと私には、そんなことを請け合っても良い権限は無かった。当時日本ではまだ、PDMLinkを導入しているメーカはほとんどなく、このシステム導入には数億円掛かるとの噂が流れていた。もし3億円を超えれば、私の上司である役員の決済権限も越えることになるので、そんなお金がいくら掛かるか分からないことを軽々しく請け合うことができなかったのである。しかし私は自分の判断で「日本側も近い将来PDMLinkへ移行する」と答えた。後日談になるが、実際日本側でPDMLinkのライセンスを購入したのが4年後の2014年、それを業務で使い始めたのがそのまた2年後の2016年、私は6年経ってようやく、自分がした約束を守った形となった。ただ、「近い将来」という予定は大きく外れてしまった。
 議題は「Pro/E、PDMLinkの標準設定」、「PDMLinkと部品表システムの連携」、「部品表システムと生産管理システムの連携」、「データ移行要領と移行日程」、「図面管理と出図システム」と実に盛沢山で、3人のコンサルタントがそれぞれの専門分野で私に質問を投げ掛け、私がそれに答える形となった。まるで裁判で、被告人である私を3人の検事が問い詰め、その様子を工場スタッフが傍聴人として見守っているような形となった。
 今回の導入システムで、CADシステムは市販のパッケージシステム、部品表システムは日本側で独自開発したシステムであった。私はその部品表システムの開発責任者であったため、コンサルタントの質問は、「PDMLinkと部品表システムの連携」及び「部品表システムと生産管理システムの連携」に集中した。会議は何度も紛糾した。コンサルタントは納得行かないと何度も質問を繰り返した。こちらも英語力が無いため、ホワイトボードに図を書いては何度も説明した。
 こんな丁々発止の議論を、1日目は6時間、2日目は5時間やったら、最初対戦相手だと思っていたコンサルタントが、だんだん一緒にプロジェクトを推進する同志に思えてきた。そして工場スタッフの中からも、笑いや冗談が出るようになっていた。
 そんなこんなで、何とかこの出張目的は無事達成され、現法側は2日目の夜にFarewell Partyを開いてくれた。私は時差ボケもあり、この日曜、月曜、火曜の3日間で合計睡眠時間が10時間ほどであったため、睡魔を必死にこらえながら、皆とプロジェクトの成功を誓った。