学校へ行くということの意味

 今日は1番上の孫の誕生日で今日で11才になった。彼がまだ1才の頃、両親ともに用事ができたため、私が会社を休んで彼を1日あずかったことがある。朝8時前の東京駅の雑踏の中で息子から引き渡されようとした時、彼は大声で泣き叫び息子に抱き付いた。私はその彼を息子から無理矢理引き離して電車に乗った。きっと回りの乗客には、泣き叫ぶ幼児を誘拐した凶悪犯のように見えたことであろう。
 5月生まれで11才ということは、日本なら小学5年生になったばかりである。しかしながら今彼が住む米国では、5月最終週から夏休みに入り、8月下旬の新学期が始まると彼は6年生になる。すなわち今は5年生の最後の時期なのである。ただこれは標準的な就学スタイルの場合であって、彼はずっとホームスクールで勉強していて、学校には通っていない。初めから不登校なのである。息子も昨年はさすがにプライベートスクールへの入学を申し込んでいたそうだが、新型コロナウイルス感染爆発でスクールが休校となり、休校明けの授業が全てオンラインと決まったため、ホームスクールを継続することにしたそうである。
 それにしても、アメリカの自由な考え方には付いて行けない。学校へ行かないと友達と遊べないし、第一友達もできないだろう と心配してしまう。しかしながら、学校へ行く意味とは何であろう? と改めて考えてみると分からなくなる。日本では「不登校」が問題となっているが、その背景には、「学校へは行かなくてはならない」という常識的義務感があるからだ。もし「学校へ行かなくても勉強はできます」と柔軟に考えれば、不登校が問題ではなくなってくる。やはり「常識を疑え」という心構えは常に持ち続けるべきであろうし、選択肢を先入観で狭めてしまわないようにしたいものだ。

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今日はインゲン豆とキュウリのところにネットを張った。家庭菜園もだんだん賑やかになってきた。