タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

立夏・子供の日

 今年は子供の日立夏となった。24節季の中で立春は節分の次の日として世間にも広く認知されているが、立夏は、夏も近づく八十八夜の何日か後で、しかもゴールデンウィークと母の日の間にあり、知らず知らずのうちに過ぎていく。今年度から24節季は、例年より1日繰り上げモードに突入しており、節分の日が124年振りに2月2日になったし、立夏子供の日となった。拙宅の庭にはアヤメが咲き始め、そのアヤメの塀の向こう側では、キジのつがいが仲睦まじく戯れていた。

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 私の日課ウオーキングコースの途中には児童公園があり、そこの清掃は当町内会が担当している。昨年4月は緊急事態宣言が発出されたため、町内総出の公園草むしりは中止となり、その代わり町内会役員であった私が、刈払い機を使い3時間掛けて草を刈った。今年は緊急事態宣言は出てないが、富山県の警戒レベルがステージ2に上がったため、公園草むしりはやはり中止となった。そしてそれは仕方ないのだが、未だに役員による草刈りもなく、草は伸び放題になっている。そういう姿を毎日見ていると、ついつい『今年の役員はちゃんと仕事をしていない』と思ってしまう。
 しかしながら、このついつい思ってしまう心理状態は、一時期問題となった「自粛警察」の人達の心と良く似ている。各個人、皆それぞれ『こういう風にすべき』という基準があるのだが、誰もが自分の思う所の基準こそが正しい基準だと思っている。しかも、『自分は頑張ってその基準に沿って行動しているのに、、、』という気持ちが強ければ強いほど、その基準から外れた他人の行動が許せなくなってしまう。
 似たようなことは、嫁と姑の間でも起きる。長く豊富な経験を持つ姑から見れば、つたない嫁はさぞかし不完全な存在であるに違いない。でも、そこは、「互いの価値観や思う所の基準が違うからしょうがない」と達観するのが一番だと思われる。
 我が家の長男の嫁はアメリカ人であるが、長男と結婚後 初めて家に遊びに来た時、妻が作った手料理でもてなした後、私が皿洗いをし、妻と長男と嫁はリビングで談笑していた。そんな中で嫁が私の方まで来て「手伝いましょうか」と言ったが、私が「No, thank you」と言ったら、それっきり嫁はリビングへ戻って行ってしまった。日本人なら、言葉の裏を読み、「でも、やはり私手伝います」と言うのが当たり前なのだが、アメリカ人にとっては No, thank you は No, thank you であり、それ以外の何ものでもない。『文化の違いだからしょうがない』と思うことで、イライラも腹立ちも全くなかった。
 人間年を取ると、若い人のやることなすことが許せなくなって来る。そしてその傾向は、自分の子供やその配偶者に対してますます強くなる。ただ、私も妻も長男の嫁でこの対処法を勉強させてもらった。『アメリカ人だからしょうがない』と思えば良い。それがたとえ日本人であっても『XXだからしょうがない』と思えば良いのである。