タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

黄砂の朝に思ったこと

 今日は年度末、富山では黄砂でもやの掛かる朝を迎えた。
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 1年前の今日、退職した。前日に志村けんさんが新型コロナで亡くなったニュースが流れ、富山でも初の感染者が出ていた。不安の中で第2の人生がスタートした。そして、この1年間はコロナに明け暮れた1年間となった。
 昨日、文科省は高校の教科書検定結果を発表したが、その中には、主権者教育を担う「公共」の中で、ジェンダーLGBTの記述も増え、新型コロナウイルスも登場したという。未来を担う若者には、「自分で考える力」を身に着けて欲しいと思った。
 ジェンダー平等は今では当たり前の主張であり、これに異を唱える人はいないと思われるが、最近はその平等が、「機会の平等」ではなく「結果の平等」を目指し、色々な政策が進められて来ている。先月問題になった森氏の女性蔑視発言も、元はと言えば文科省からの「女性委員の構成比率を40%以上にする」がきっかけであった。委員になる資格は男女平等に与えられているが、その結果としての委員の男女比率が均等になっていないから、「改善が必要」と文科省は言っているわけである。
 今では、会社の人事登用においても、能力が同じなら、あるいは多少劣っていても、男性ではなく女性の方を登用すると言われている。本来不平等であることが、ジェンダー平等への施策になっているわけである。
 「機会の平等」は裏では「自由競争」を意味する。資本主義では、誰でも資本家になって金儲けができる。しかしながら、資本家と労働者の間に貧富の差ができてしまい、「結果の平等」を達成できない。これを改善すべく、累進課税にて金持ちから沢山税金を取って貧困層への生活支援に当てているわけだが、貧富の格差は開く一方である。
 このようにして、世の中には「ままならないこと」が沢山あるわけだが、高校教師においては、「生徒に対し課題となる題材を与え、それを皆で議論することで、自分で考える力を付けさせる」よう指導して欲しいと願う次第である。