タテよこ斜め縦横無尽

田舎の年金暮らしのたわごと

新型コロナウイルス問題の新しい視点

 今日1月17日は阪神淡路大震災があった日である。私はこの震災が起きる2年前に関西地区から東京へ転勤となっていたため、家族を含めて被災せずに済んだが、沼地を埋め立てて建てた一軒家の地盤が沈下したため、大家さんとしての修繕出費を余儀なくされた。
 そんな鎮魂の式典が催される中、緊急事態宣言が出されて以降も新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない。そして皆のイライラも止まらない。誰もが『こんな風にやってきたから、こんな状態になってしまったのだ』と 聞きかじりの知識で自論を展開し鬱憤を晴らしている。ここは一つ見方を変えれば新しい景色が見えるかも知れない と思い、この新型コロナウイルス問題を今までとは異なる視点で考えてみた。
 まず最初に、年間4000人の死者を出すこの病気の深刻度である。もう巷には出回っている情報ではあるが、インフルエンザの年間死者数は3000~4000人程度、しかもこの値はインフルエンザが起点となり、その後肺炎や基礎疾患が悪化して亡くなった人数がカウントされていないので、新型コロナウイルスと同じ基準でこれらを全てカウントすると、年間1万人ぐらいがインフルエンザで亡くなっていることになる。このように考えると、「何でそこまで怖がる必要があるのか?」という気持ちになるし、指定感染症の2類をインフルエンザ相当の5類に変更すれば、この病との戦い方において、豊富な医療資源をもっとこの病との戦いに差し向けることができると考える次第である。
 次に、救いたい命の価値について考えてみる。日本の自殺者は、民主党政権時の経済がどん底だった2003年の年間34,000人から、経済の回復に伴い漸減し、2019年には20,000人程度にまで低下した。ところが、このコロナ禍でこの自殺者が20%程度増える勢いである。この20%という値は、年間3000~4000人程度の人数増加を意味する。日本人は命の重さは無限大と考えるので、命の価値を計ろうとすると拒否反応を起こし思考停止する。そこで、命の重さを個々に計るのではなく、天秤に掛けて比べてみる。「コロナで亡くなる高齢者で平均余命が5年程度の4000人の命」と「コロナ禍で苦しみ自ら命を絶つに至った平均余命30年程度の4000人の命」とどちらが重いだろうか?
 次に、命こそが最高の価値かについて考えてみる。この辺りは個人個人で考え方が異なるため何とも言えないところがあるが、私は、日本人と欧米人で違いがあるように思えてならない。端的に言えば「病気で亡くなるのは不幸か?」という問いに対する考え方である。私は、欧米人が「病気で死ぬのは運命であり、それで神に召されて天国に行くのだから幸せ」と考えているような気がしてならない。一方で日本人は、宗教心も無ければ、「人はいずれは死ぬのだ」という無常観的な達観もなく、ただ「生」にしがみつくことだけを最高の価値としているように思えてならない。